Alone Again Or (友人Kのこと)


〜AKBの中だとそうですね、僕は篠田麻里子ですね、うへへへへ〜



  彼の事に関しては、その付き合いの長さゆえ、例えば一度の行為で必要とするティッシュの枚

数、二番目に好きな女優の引退作が駄作だと思ったその理由、店頭で購入する事がためらわれ

るような作品を通販するときに使用する偽名など、どんな事も知っていたつもりだったが、一

人の人間としての彼の同一性を、今ひとつ認識しきれずにいた。それは複数性(日常をやり過

ごすためのキャラの戦略的管理)に起因するものではなく、周囲と意味を共有する過程で同質

化されているはずの人間像とは些か異質なものを、たびたび示されていたからだ。例えば私が

彼に電話をすると彼がぶら下がって通話時間は40分近くに及ぶ。しかし、彼が私に電話をする

時(オリンピックが開催される頻度だが)は決まって2分後にこの決め台詞を吐く。「あっ、キ

ャッチフォン入ったんで。」



彼の実家は足利の「営利心の乏しい」と言わざるをえない駅から、車で10分程度の住宅街にあ

り、そこから徒歩1分の距離に渡良瀬川が流れている。いわば原風景ともいえるその地では、異

国から税関を抜けてやって来たGUILD(D55)ではなく、町内のゴミ置き場から拾ってきたような

YAMAHA(FG180)が鳴らされるべきだろう。陽光と倍音はその同質性ゆえどちらかが犠牲になるか

らだ。そしてその川の意味、それは彼の歌をおよそ四半世紀、水紋として等間隔に刻んできた

だけではない事は、川の流れに目をやれば嫌でも気付かされる。これが運ばれていく途上でし

かない事を理解したら、否応なく最終地に想いを巡らす事になるだろう。それは遠ければ遠い

ほど、つまり対象は離れているほど理想的だ。目の前ならば歌を代替する手段などいくらでも

存在する。そしてそこで、より遠くの対象へ届ける事は、より大きな声を発する事に他ならな

いとしたら・・・。奥行きが30mしかない会場でも彼は遥かその先、100mくらいを目指して歌っ

ているのではないかと思う事があったが、その理由がそうなのではないか。引力に抗い、沈

められることなく、その距離に比して彼の歌が伸びていくように感じられるのはそのためでは

ないのか。というのは勝手な解釈の一つにすぎないが、彼が蜘蛛の巣にかかる蜘蛛をつかみニ

タニタしている姿や、ウサギを抱いている写真を見ると、彼の周囲環境に対する接近の仕方お

よびその環境が彼に作用する方法が、彼の子ども期から現在に至るまで、脈絡を持ったものと

して語られうるのではなかろうか。私は他にも足利の地を色々と案内してもらったのだが(本

当は二人でクレープを食べた時のあの多幸感に関して詳述したいのだが断腸の思いで割愛す

る)、どこに何が生息しているかを彼は、詳細に心得ている。足利という庭において、それら

の生態を観察し、その交わり方をある程度把握しているため、支配・従属という関係性を越え

て、対等な行為者であるかのようにたわむれる。動物や昆虫、時には川の水や金雲母を手に取

り、またそれらも彼の手に取られる事で、彼の内なる自然性が生成されてきたのだろうが、そ

れが現在まで保持されている事が、年とともに昆虫が怖くなった私には驚きだ。「友人K

は生物学的なヒトの要素が色濃く残っている人間である。」つまり、このように言ってもいい

のではなかろうか。



空間的・時間的に社会秩序を形成する上で、一般的に必要とされるのは生徒手帳に記されてい

るような「便器は常に真っ白になるまで自ら進んで磨きあげる(清潔の概念)」、「リコーダ

ーを教室に残したまま下校しない(健康の概念)」、「1限目が体育でも2限目から登校しない

(時間の概念)」という規範だが、彼はと言えばそれらをどれほど内面化してきたのだろうか。

彼の部屋に関しては・・・、おっと、私は誰も減滅させたくない、発言を控えるべきだろう。

健康、時間の概念に関しては・・・、いずれも「は?」と一言だけ添えておく。しかし、渡

良瀬川では糞尿は土が分解してくれるだろうし、笛と言えば草笛で事足りるだろうし、彼の身

体の脈絡が人工、直線、漂白といった均質化の要素ではなく、ヒトの持っている自然性によっ

て与えられていると考えたら、それも理解できる事ではないのか。彼が作詞において「ぐにゃ

ぐにゃ(春の強盗)」「ぐちゃぐちゃ(悪のワルツ)」「ぶよぶよ(すてみ)」といった明ら

かに曲線や乱雑、無秩序をイメージさせる擬態語を好むのも、作曲において着地点が予測でき

る定型のコードプログレッションを嫌うのも(例えば“ランランラン”においてGのコードが鳴

った瞬間に、どフォークかと思わせてその直後、自然にFmを鳴らす)、身体の分節が標準化さ

れたものとは異質な自然性の部分が存在するからだろう。そしてそれが足利という周囲環境と

の関係性によるものだということを再度、強調しておく。



彼の好む音楽、つまりフォークであるが、それは字余りや、Am→Dm→E→Am、スリーフィンガー

等の形式にあるのではなく、彼のフォークの含意するところは土着的ということであり、友

川や友部、たま、ソウル・フラワー・ユニオンを好むのは自己が根付いている土の匂いがする

からであると考えてみると、足利の土に足を沈めて作曲してきた彼がそこに共有感情を抱くの

は、何ら不思議ではない。一方で彼の最も愛する海外バンドはLOVE、DOORS、PINK FLOYD(The

Piper At The Gates Of Dawn)、といった具合だが、ご覧の通り活動時期が公民権法成立、サ

マー・オブ・ラブ、ウッドストックなど近代化に対する反体制の運動と重なり合うバンドだ。

特に彼の好きなLOVE、ボーカルのアーサー・リー(1945〜2006)はアフリカン・アメリカンで

あるがアーサー・リーにとって自らの足を沈められる土は存在したか?1960年代の人種や同性

愛といった差別に対する抗議運動の中で同一性という概念が拡まったその歴史性は、辿る土を

もつ彼には意味のあることに違いない。アフリカン・アメリカンには自らの土が無かったのだ。

ではなぜ、土着的とは言えないLOVEが好きなのか?サイケデリック、つまりLSDによる逃避だが、

それは高度大衆消費社会によってもたらされた白人中産階級の様式化された生活からの逃避で

はなかったか。そこで定着した例えば家電製品の類、掃除機、洗濯機、自動車といった物質文

明の所産は、その使用において身体の分節を変化させるモノであり、それらは自然性を残す彼

にとっては、適応しがたいモノであろう(一応、彼を野生の動物と区別するために記しておく

が、彼は運転もするし携帯も所持しているし大学も卒業している)。ここに、アーサー・リー

と彼の、その近代化された人工的世界からサイケデリックな自然的世界(自然ほどサイケデリ

ックなものは存在するだろうか?)へ逃避するという行動の一致が見出される。ただ注意すべ

きはその逃避が、アーサー・リーは意識的であり、彼はおそらく無意識だということだ。

「あっ、やばい、ティッシュから零れてパンツが汚れた、匂いが染みつく前に、渡良瀬川で洗

ってこよう」といった具合に。そして極論すれば、彼にとっての足利の周囲環境とは、アーサー

・リーにとってのLSDの世界であり、彼の土着的なフォークとは物質文明からの無意識的逃避か

ら生み出されるサイケデリックなフォークである。



と、ここまで彼の人間性に関してはほとんど言及してこなかったが、それは私の立場で口にす

るのはフェアではないからだ。しかし最後に一つだけ記しておこう。彼は私が不在のワンマ

ンライブのアンコールで、その当時、私は彼の一切の連絡を遮断していたにも拘わらず、私

に曲を捧げてくれたそうだ。「〜に曲を捧げます。」という台詞を唾棄すべき理由は、それが

大概、計算されて自己に向けられているからだが、彼は計算できるほど頭がよくないし、

ナルシシズムとは無縁だ。そして今思えば、キャッチフォンの意味も、通話料金体系もよく理

解しているわけないだろう。つまり、こういうことではないのか。「Kは生物学的なヒトの

要素が色濃く残っているただの友人である。」



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